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宮の梨をはぐくむ風土

■宮地区の地理

<宮 みや>とは、上里町の大字<長浜>地区の中の小字の一つの集落です。

宮地区が属する埼玉県児玉郡上里町は、県の最北に位置し、西の神流川(かんながわ)、北の利根川を挟んで、群馬県と接しています。

また赤城山、榛名山、赤城山の雄大な姿を北から西に望み、南には寄居、児玉、藤岡の山々を身近に感じる、関東平野の西北部の端でもあります。

 

■宮の気候

この内陸の山々に囲まれた地形により、冬は北の赤城山から吹きつける通称「赤城おろし」と呼ばれる雪に冷やされた突風に凍え、夏は「暑いぞ熊谷!」で日本一を目指す灼熱の暑さ、そしてその暑さがもたらす夕立と雷。

この一年の寒暖の差が、おいしい梨をはぐくむ大きなゆりかごです。

 

■母なる川 <神流川>

源流を埼玉、群馬、長野野の三県の境に発し、群馬と埼玉の県境を下り、本上里町の北で烏川、そして利根川へと注ぐ川です。

宮地区はこの神流川の最下流域で川に隣り合わせた集落で、遥かな昔に川が運んだ砂や砂利の層、そしてその上に上流より運ばれた肥沃な土壌がたい積した農地に恵まれています。

この水はけがよく、また栄養分に富む土が、宮の梨により一層のうまみを加えています。

神流川が育む肥沃な大地

梨の里の歴史

■宮梨の始まり

宮の梨-社日講資料

 

大正四年九月と日付のある、社日講員連名簿です。

毎年宮地区の梨栽培農家が持ち寄った会費や購入した品々が書かれており、この時期すでに、宮地区の多くの農家が梨を栽培していた事がわかります。

(宮区文章 三 上里町立郷土資料館蔵 より)

■兒玉郡梨果組合

「兒玉郡梨果組合」の出資金証

 

「兒玉郡梨果組合」の出資金証です。

日付は大正拾壱(十一)年七月十日
出資金額は伍口、弐拾伍圓(二十五円)

兒玉郡梨果組合は宮の梨農家の他、近隣集落の久保、上郷、下郷の方々で構成されていたそうです。

内容

一 組合名称  兒玉郡梨果組合
一 設立年月日 大正拾壱年四月弐拾日
一 出資総額  金壱千伍百円
一 壱口金額  金伍圓

右記名者ハ 当組合ノ規約ヲ遵守シ 当組合ノ出資伍口ノ出資者タルコトヲ證ス

(長浜文章 二 上里町立郷土資料館蔵 より)

■天皇陛下への梨献上

宮の梨-八雲梨を天皇陛下へ献上

 

昭和14年に兒玉郡梨果組合が「八雲」梨を献上したときに写された写真です。

写真に写る梨園は、当時新品種だった「八雲」や「菊水」の試験・研究圃場で、その成果である「八雲」梨を殿下へ献上したそうです。

また、当時は盧溝橋事件から日中戦争へと日本が太平洋戦争へと向かう時代で、出兵した組合員数名が写っていないとのことです。

太平洋戦争中の食糧難の時期は、梨の樹の間にサツマイモなどの野菜を植えることを強制されたそうです。また村の若者が兵隊として召集され、村の鎮守・丹荘宮で武運を祈り、村人に見送られ次々と出兵してゆきました。

 

 

 

宮の梨のルーツ

■町の梨栽培のパイオニア 戸矢三郎氏

戸矢三郎氏は、宮地区が属する長幡村の隣り七本木村(現上里町七本木)に弘化四年(1847)に生まれました。彼の祖父が文政年間に数本の梨樹を試植し、四反程の梨園を開墾したとしたことが上里町の梨栽培のはじまりとのことです。

その後明治期に三郎氏がが梨園経営を継ぎましたが、病害虫などで枯死してしまったそうです。この失敗を克服するよう研究を重ね、明治36年の児玉郡主催共進会に出品し一等賞を得る成功を遂げたました。

また、有志に栽培方法を教示し梨栽培の普及に努め、明治37年に乾武(けんむ)果実組合を結成し、組合長に選出され販路の開拓に努めました。

(七本木村郷土誌 五の五 上里町立郷土資料館蔵 より)

■江戸時代の梨先覚者、関口梨昌翁

江戸の中期まで、日本の在来ナシは隣の群馬県に集中しており、栽培方法や品種は群馬県から新潟、千葉、神奈川、岡山などに広められたという説が研究されています。

当時の前橋には梨昌翁と呼ばれた関口長左衛門が勢多郡下大島村(現前橋市下大島町)が昔の利根川の河床で普通の作物が作れないことから、ナシ栽培を研究しここに大島梨と呼ばれる梨産地の礎を築いたそうです。

文政十三年(1830)隣村の伊予野清次郎から「梨木の伝」という栽培書をゆずられている。このときの譲渡書とともに、二二品種が挙げられている記録が、明治時代の文献にあったとのこと(勢多郡誌)

群馬県(上野の国)は東国古代文化の中心地といわれ、巨大な古墳群に、多くの副葬品が残ります。これは古来から大陸系の技術者たちが集団的に渡来していた事を物語っています。また大和朝廷は関東や東北の開拓の拠点として、古代の官道であった東山道から多量の来人を上野の国に送り込んそうです。

こうして古来より大陸との繋がりが深く、海を渡った中国や韓国の梨が多く集まり、栽培される土壌があったものと考えられています。

(梨の来た道 鳥取二十世紀記念館 より)

■宮梨のルーツ

梨の歴史を伝える文献から、各地の山に自生していた梨や大陸から伝えられた梨は、古くから食料として利用され、江戸時代に梨栽培を生業とする農家がその技術を高めていったようです。

江戸末期から明治にかけて、大規模な梨産地が形成され、その一つが群馬県の前橋市であったようです。我が宮の人々も、当地が梨栽培に適した土壌であることを知り、最先端の栽培技術を前橋やその周辺地域から学びながら宮梨の基礎を作っていったのではないでしょうか。